"私が伝えたいことは、芸術活動は他の科学と同じように一種のリサーチであるということです。企業が未来のプロダクトを作るためのR&D(リサーチ&開発)部門を持つように、芸術活動は人類のためのR&Dであり、新しい未来を創造するためのものです。"
Zachary Lieberman (openFrameworks開発者)によるメッセージ
全面的に同意。リサーチ無きものに、新しい価値や未来は創造できない。絶対に。
(via ssuge)
Zachary Lieberman (openFrameworks開発者)によるメッセージ
全面的に同意。リサーチ無きものに、新しい価値や未来は創造できない。絶対に。
(via ssuge)
冒険というのは、安定した日常生活から離れたところに行って、危険や困難と闘うことである。だとすると、日常生活は冒険から遠いもののはずだ。しかし、最近は社会システムそのものが不安定なので、安定した日常生活などというものは世界中どこにもないのかもしれない。つい最近まで、サラリーマンは安定した生活を送っていたはずで、サラリーマンが仕事をやめて自分のやりたいことに挑戦したりするのは冒険みたいなものだったが、今やサラリーマンであり続けるのも冒険になってしまった。ある日突然リストラされたり会社が潰れたりするかもしれないし、自ら別の会社に移るのも冒険だ。個人事業主にとってはもっと冒険的な状況だといえるだろう。我々はみんないつの間にか、否応なく、安定した日常生活から離れてしまっていたのである。
冒険というのは「どうすればいいのかわからない状況」を何とかして乗り越えることである。今は、世界中の人々がどうすればいいのかわからないような状況である。どうすればいいのかわからないような世の中では、地味に日常生活を送ろうとするだけでも、常にいろんな問題を乗り越え続けなくてはならない。つまり、我々は冒険するしかない世界にいるのであり、地味な日常生活でさえも冒険なのだ。我々は、次々に目の前に現れる新たな事態に対して、どう対応するのかを自分なりに考え続ける必要がある。
今は「どうすればいいのかわからない状況」なのだから、どんな問題に対しても正解はない。エライ人に聞いても正しい答えを教えてくれるわけではない。我々はただ日常生活を送るだけでも、正解の無い問題に自分で答え続けなければならないのだ。それはタイヘンなことではあるが、正解が無いのだから、どんな風に答えるのも自由である。自分がやりたいことをやるというのが自分にとっての正解だ。そう考えるしかない。
冒険の最終目的は、日常生活に戻ることである。どうすればいいのかわからない状況を苦労して乗り越えると、やっと日常生活が手に入る。そういうわけで、これからの時代、日常生活というのはすごく貴重なものなのである。危機的状況を乗り越えると、この間まで退屈だった日常生活の貴重さがわかる。我々は日常生活に飽きてくると「もっと創造的で有意義なことがしたい」などと考えるが、今や日常生活を維持するだけでも充分創造的で意義のある冒険なのだ。
"我々はなぜか非日常を求める。非日常というのは、繁華街とかお祭とか旅行とか、とにかく日頃の生活とはちょっと違う時間のことである。なんでそういうものを求めるのかというと、日常生活というのが、息苦しいものだからである。日常生活は最初から息苦しかったのではない。最初は希望に燃えて、とまではいかなくてもちょっとは新鮮な気持ちで始めたはずの生活も、慣れるとなんとなく息苦しくなってしまうのだ。息苦しいというのは心が動かないということで、それは今の生活に身体が慣れてしまったせいである。要するに、鈍感になって新鮮な気持ちが無くなったのだ。
非日常には災害とか入院とか犯罪みたいに悪い意味のヤツもある。そういうのではなく、楽しくて新鮮な世界を我々は求めているのだが、新鮮で楽しくても非日常は慣れない世界なのだから危ない。非日常にはトラブルがつきものだ。そうでなくても、慣れないことをやるから面倒クサイ。最初は新鮮だからいいが、新鮮さはすぐに失われる。しかし、まだ慣れてはいないから面倒でイヤになる。いやいや行動していると注意力が散漫になるので、ケガをしたり忘れ物をしたりする。つまり、非日常は常に危険と一体なのである。
日常から逃れたいが危険は冒したくないという場合は、小説とか映画などの仮想的な非日常の世界に入り込むこともできる。あるいは、スポ-ツ選手が身体を使って非日常の世界で闘っているのを見ることで代理的な満足を得るという方法もある。しかし、そういうことをしていると、だんだん物事を頭だけで理解するようになって、実際の非日常のシンドさが解らなくなる。現実が解らないことはコンプレックスとなり、頭で理解したつもりになるとプライドが高くなる。そうすると、どんどん現実に対して腰が引けてくる。
非日常というのは自分にとって慣れない世界のことで、そこに慣れている人にとっては日常であったりする。旅先の世界は非日常の世界だが、そこに住む人にとっては日常である。つまり、非日常を求めるのは、他人の日常が自分の日常よりいいものに見えるということなのである。田舎のネズミが都会に憧れ、都会のネズミが田舎に憧れるというわけだ。しかし、実際に他人の日常を経験してみると、慣れないせいでのトラブルばかりで失望したりする。でも、その経験は無駄ではない。それをやっておかないと、心の中にコンプレックスとプライドが同時に発達して、すごくややこしくなるのだ。
自分にとっての非日常は、他人にとっての日常である。いろいろな他人の日常を経験(あるいは、共感的に想像)してから、自分の日常に戻ってみると、「自分にとっての日常も、実は他人にとっては非日常だったのだ」ということに気付く。つまり、自分の日常を新鮮に見ることのできる視点もあるということだ。他人の視点で自分の日常生活を眺めれば新鮮なのだ。その新鮮さも長続きはしないので、常に新たな視点を探す必要はある。でも、非日常の世界を求めるよりもお金がかからないし、いつでもどこでもできる。
"Ghost in the Shell Soundtrack Floating Museum
(出典: youtube.com)
【2220】女性の肉が食べたい
Q: 20代男性です。昔から噛むことが好きだったんですが、二年くらいから女性の胸や腹や二の腕を噛みちぎりたい衝動に駆られ正直、今は食べたい衝動に駆られています 彼女に正直に伝えたら気持ち悪がられて別れました。その後、短い期間に何人かと男女の仲になり、その度に食べさせてくれるか相談しましたが、やはりきみわるがられてしまいました 本当は噛みちぎりたい 最近は真空パックして風呂に入れて人肌に温めたステーキ肉に生でかぶりついて凌いでます 本当は20代後半~36までの女性の肉が味わいたい。 何かの精神疾患なんでしょうか? 最近は女性をみるとヨダレがでてくるし、美味しそうだなと思ってしまいます。文章を打っている今も、想像からかヨダレがとまりません。
林: きわめて危険な衝動です。精神科を受診してください。